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ギャラリー1

最終更新:2001/06/10
本丸周辺の光景から。

大阪城天守閣 本丸広場
 
 天守閣、博物館、大阪万博の際のタイムカプセル、金蔵、上水道の配水池、日本庭園と何とも統一感のない施設が混在する現在の本丸広場。徳川時代には日本一豪華と言われた本丸御殿を始めとする数多くの建造物があったが明治維新の際に焼失してしまった。一方地下には秀吉建造の本丸石垣が埋まっている。秀吉時代の本丸は(唯一図面による資料が残っている)三段の高低差のある郭から成っており、今とは全く別物であった。また、地下15mあたりには太平洋戦争末期に陸軍の掘った防空壕が縦横に走る。戦後埋められたが、今も蛸石あたりでたまに陥没が起こるとか。
 
昭和の天守閣
 
昭和6年、大阪市民の寄付により再建なった3代目天守閣。鉄筋コンクリート製に異論を唱える人も多いが今ではしっかり大阪のシンボルとして定着している。また、建造以来70年の月日をへて、それ自体、大阪の昭和初期を代表する歴史的建造物になってしまった感があります。平成9年、一年間をかけた平成の大改修により外観も、リニューアルされました。
昭和の天守閣
米軍による機銃掃射痕 米軍による機銃掃射痕
 本丸北側の山里丸へ降りる途中の石垣に残る弾痕。これはB29とともに大阪空襲にやって来たP51ムスタングからの機銃掃射の跡です(いつの空襲かは不明)。大阪城一帯は陸軍第四師団司令部、大阪陸軍砲兵工廠をはじめとする軍関連の施設が集中していたため、より激しい攻撃の目標とされた。余談ながら大阪の街中にもこうした機銃掃射の跡が結構残っている(JRの高架とか、、、)。
秀吉の石垣遺構

大阪城といえば豊臣秀吉。だが建造物は勿論の事、堀、石垣の石ひとつにわたるまで豊臣時代の物は何一つ現存していない。今の大阪城は大阪夏の陣での落城後、徳川幕府が10数年をかけて(堀の石垣の根石から)築きなおした徳川時代の物なのである。写真は天守閣南に見られる一見井戸のヒューム管施設(気安く座るな!、、、笑)だが、上蓋をとると15mほど下に豊臣時代の石垣の一部がのぞいている(らしい)。非公開の為、一般の人はまず拝めることはない。でも死ぬまでに一度は見てみたい!!
秀吉の石垣遺構
金蔵 金蔵

 天主台の金名水井戸屋形とこの金蔵が本丸広場に残る唯一の徳川時代の遺構である。幕府直轄領からの年貢の金銀、長崎貿易の運上金が納入されていた。城内勤務の旗本がここから三千両の大金を盗み出したという裁判記録があるが、はたしてホントなのか?天守閣南東の木立に覆われた目立たない場所に位置するため見逃している人も多いのでは。白壁と格子状のなまこ壁のコントラストが美しい。ちなみに重要文化財です。
謎の石組
 
 内堀の水堀と空堀を分ける境目にある不思議な石組み。これは一体何なのかご存知の方はいらっしゃいませんか?写真は東側の物ですが、西側にも同じ石組みがあります。
内堀/謎の石組
天守台に残る1t爆弾被弾痕 1t爆弾被弾跡

天守閣東北角の石垣のゆがみ。これは1945年8月14日、太平洋戦争終結前日行われた最後の大阪大空襲の際、投下された1t爆弾の被弾跡。石垣をこれだけ歪ませるなんて、とんでもない力だ、と背筋が寒くなります。でも、落下点がもう少しずれていたら、今の天守閣は確実になかったでしょう、、、ね。ただ、天守閣の建物自体は石垣に重量をかけない工法で作られていたため、直接の影響はでなかった、という。
豊臣秀頼、淀殿自刃の跡
 
 本丸広場北端の地形が一段低くなった一角にポツリと立つ石碑。豊臣時代には桜や松、藤などの林の中に草庵茶室が点在する風流な一角だったらしい。
 1615年5月7日、大坂落城の際に天主での自刃の機会を逃した秀頼、淀君が焼け残ったこの地に立てこもり、翌日自害して果てたと伝えられる。それを記した石碑はあるが、その正確な位置は解かっていない。
豊臣秀頼、淀殿自刃の跡
内堀の空堀部分 空掘
 
本丸を囲む内堀は空堀と水堀とに分けられる。周りのビル郡の汲み上げによる地下水の枯渇(実際西外堀と南外堀は下水処理水によりその面目を保っているとか)、あるいは大坂冬の陣和睦の時の内堀埋め立てのあとと言う人もいるがそれはナンセンス。内堀北側から南を眺めてみればその理由は歴然です。なお、内堀石垣の南側面には陸軍が掘った防空壕の入り口が数箇所残っている。(写真中央部)