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備前島から見た大坂城
私説-大坂冬の陣
(最終更新:02/03/13)

備前島から見た大阪城天守閣
かっての「備前島」あたりから大阪城天守閣を望む。
このあたりは豊臣大坂城を取り囲んだ四つの惣構堀からは最も本丸との距離が短い場所。
ちなみに豊臣時代の天守閣は今の物よりも一回り小振りで位置ももう少し東側(写真左手)だった

 「備前島」というのは現在の都島区網島町あたりのこと。現在も寝屋川、第二寝屋川、そして大川(旧淀川)が複雑な地形を織り成すこのあたりだが、戦後の寝屋川水系整備と護岸工事ですっかり様変わりしてしまった。今の地形からはその頃の風景は想像もつかないが、当時、河内平野を流れあがってきた大和川と、本流だった淀川の合流地点にできた中州状の地形にそのような呼び名がつけられたのだろう。
 ここは豊臣時代の大坂城の北惣構堀としての大和川の外側にあたるが、大坂冬の陣の際、徳川方はここから大砲で大坂城本丸を攻撃したことで知られている。籠城戦を決め込んだ大坂方との和議交渉が遅々として進まないことに苛立った徳川家康はイギリス、オランダから買い求めた最新式の大砲、十数丁でここから天守閣目指して砲撃を命じたのだ。

地図はこちら

京橋上に架かる「大阪橋」より   
大川と寝屋川の合流地点
寝屋川、大阪城側からの「備前島」方面の眺め
下に見える橋は「京橋」
大川(旧淀川)と寝屋川(当時、大和川)の合流地点
当時は水量、水流とも現在の比ではなかったはず

両軍保有大砲比較表

徳川方 豊臣方
名称 カルバリン砲 フランキ砲
材質 鋼鉄製 青銅製
長さ 4.8m 2.9m
口径 16.2cm 9cm
砲弾重量 14.4kg 不明
射程距離 6300m 不明

 ここで注目したいのは徳川幕府がイギリスとオランダから購入したばかりだった、当時最新式のカルバリン砲の性能の高さである。射程距離6,300mの性能がその数字通りに発揮されれば本丸は言うに及ばず、惣構内、全ての城域が射程圏内に入ってしまう。これは秀吉が幾重もの堀で大坂城域を整備した頃には想像もつかなかったことに違いないし、砲弾が本丸にまで達した時の豊臣方の驚きは大変なものであっただろう。当時彼らが所有していた大筒(フランキ砲)は、たまに暴発するなど、実戦では役に立たない代物だったのだ。だが、12月16日には、砲弾が本丸の淀殿の居間の櫓を打ち壊し、侍女7-8名が即死するという事件が起こり、それまで強硬に和睦を拒否していた淀殿も恐怖におののいて和睦論へ転換したと言われる。そして、18、19日の講和交渉で一気に大綱妥結、22日の誓紙交換完結を以って冬の陣は幕を閉じた。あまり話題に上ることもないのだが、これはテクノロジーの進歩が従来の戦のあり方、特に防御施設としての城郭の概念までを根本的に変えてしまった一つの象徴的出来事とは言えないだろうか?

川崎橋    大川河川敷公園
備前島と大川対岸を結ぶ歩行者専用橋「川崎橋」
最新式の工法で作られたこの橋だが、橋の歴史は古い
毛馬から中の島にかけての大川沿いは
大阪市内でも指折りの桜の名所

備前島からの天守閣    「水の都」を象徴する風景
天守に命中した砲弾もあったというが
それは定かではない
今となっては「水の都」を象徴する風景

 もっとも、その当時、徳川幕府が保有していた程度の「国崩し(カルバリン砲)」の数では幾重もの堀と石で築かれた大坂城の鉄壁の守りに致命的なダメージを与えることは出来なかったはずで、家康得意のデモンストレーション的戦術の一つであったと見るのが正しいと思う。しかし、この一件で、まんまと和睦に応じ、秀頼の領土安堵との引き換えに堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破却を受け入れた事が豊臣家滅亡への決定的引き金となる。
 また、幕府による大阪城再建の折にも、あえて惣構堀の再建は行わず(城域を大きく狭めてまで)、「幕府の権勢の象徴」としての高い石垣、深い堀、そして豊臣時代を大きく上回る大天守閣を築くことに心血が注がれる事になったのは、人馬の進攻を遮る防御施設としての城郭の役割が大坂の陣によって終わりを告げたからではなかろうか?これらの事からも、この備前島からの砲撃については、もう少し紹介される機会があっても良いと思う。
悠々と流れ続ける大川の流れ
今も昔も悠々と流れ続ける大川(旧淀川)の流れ


20010426