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秀吉時代の石垣をたずねる
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さがせば会える!
(最終更新:2001年11月22日)
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大阪城天守閣復興70周年の記念イベントで本丸に残る豊臣時代の遺構通称「謎の石垣」が30年ぶりに一般公開された。普段は蓋がされたヒューム管施設の下方約7mに保存された石垣遺構の一部を上から覗き込むだけのものだったが、現在の大阪城は根本から徳川幕府によって作り変えられたものだということが実感できる催しだった。
以前、このHPでも豊臣時代の大阪城は何一つ残っていないと書いたけれども、最近豊臣時代の石垣の一部が復元された場所があることを知った。早速、見にいってきたので報告いたします!
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今回歩いたのはこのあたり
↓
(地図はこちら)
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「謎の石垣」一般公開
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くどいようだが現在の大阪城は「大坂夏の陣」の後、徳川幕府によって石垣の根石部分から根本的に作り変えられたものだ。特に三段の曲輪からなり、堀の形も現在とは大きく違っていた本丸(左図参照)は莫大な盛り土がなされ、かっての面影を残すものは何もない。
今回、公開された石垣は昭和34年の大阪城総合学術調査の折のボーリング調査で発見され、その後引き続き行われた発掘調査で見つかった石垣遺構の一部をヒューム管設備で保存したものだ。当時は石山本願寺御坊の遺構であるとか様々な説がだされ、特定できなかったが、その後発見された中井家蔵の「豊臣時代大坂城本丸図」や、それに合致した他の場所からの石垣遺構発見などから今では豊臣大坂城の石垣であることが確定的になっている。
石は総じて小さめ、自然石を積み重ねた「野面積」。石の天端は漆喰で塗り固められ、また大坂夏の陣での火災の痕跡をしっかりととどめているそうだ。
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公開に当たって建てられた看板。落下防止の金属の格子ごしにライトアップされた石垣を覗き込むというものだったが、こういった公開も何と30年ぶりのことだった。
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格子の隙間から目いっぱいズーム!一度でいいから下まで降りてこの手でふれてみたいもの
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TV等で盛んに告知されただけあって注目度は抜群だった。ただ、石垣を覗き込んで「大水でもあってこんなに埋まってもうたんかな-?」なんて会話してるおばちゃんもいた、、、。大阪市で一番標高が高いこのあたりが水没するには南極の氷でも全部溶けなきゃ無理でしょ!?(笑)
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おまけ:ヒューム管のその後
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11月11日で終了した「謎の石垣特別公開」。テントと看板が撤去され、鍵付の蓋がされたヒューム管施設には平和ないつも通りの毎日が戻っています、、、(^^;
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←椅子じゃないんですけど、、、
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大阪ドーンセンター横の石垣
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秀吉時代の石垣がこんな所にあろうとは!場所は地下鉄天満橋から東へ歩くこと約5分、ドーンセンター北面にそった石垣がそれである。
平成元(1989)年のドーンセンター建設の折、敷地内から発見されたこの石垣は豊臣秀吉の最晩年に当たる慶長三(1598)年に1万7千もの民家を城外へ強制移転させて大坂城の防御力強化のために築かれた三の丸のものである。案内板によると、敷地内の地下約2mの位置から東西約21mが発掘調査の後、あいだに詰められた小石に至るまで細心の注意を払ってこの地に復元されたのだと言う。
現存の高さは最大で3.3m。上部は破壊されており、前面に転がっていた石垣石から推定すると高さは約5m。冬の陣講和後の徳川方による大坂城の外郭破壊がいかに徹底したものだったかを物語る。
やはり、秀吉時代主流だった自然石をそのまま積み上げる「野面積」のこの石垣。整形された石を優美に積み上げた現在の大阪城のものとは全く肌合いが違う。このような石垣でできていた秀吉の大坂城は一体どんな姿だったのだろう?想像するだけでワクワクしてしまう。
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ドーンセンターの北面に沿って復元された石垣。気にとめる人もない
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どうです、この無骨で逞しい肌触り?横には詳しい案内板もある
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追手門学院小学校横の石垣
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京橋(橋のほうです)から大阪城京橋口へ向かう坂道の右側。追手門学院小学校の東端の壁の片隅に小さいながら石垣がある。これも秀吉時代の大坂城三の丸の石垣を復元したものだ。昭和59(1984)年、小学校校舎の立替工事時に発見され、発掘調査の後にこの地に一部が復元されたものだ。なお、この小学校の地下にも発掘されたままの状態で石垣が保存されているという。(一般公開してくれないかな?)
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すごく小さいので見逃してしまいがち
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日本経済新聞社前の石垣遺構
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上記のドーンセンターの石垣遺構の斜め前に当たる日本経済新聞社前(裏口)にも石垣遺構が案内板つきで保存されている。が、これは徳川幕府による大阪城再建時のものだ。元和元(1620)年の大阪城再築の第一期工事で作られたもので、総構掘に見立てられた旧大和川護岸石垣の一部である。やはり日経新社屋の建設工事時に発見され、発掘調査の後、現在の場所に移転、保存されているものだ。
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案内板は立っているのだが、植え込みの樹木に負けている
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