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空堀町から玉造交差点周辺
堀(惣構)跡を歩く 3
最終更新/2002年1月16日

玉造交差点
 空堀町交差点より東の地域は、現在の長堀通りの南面に沿った形で空堀が続いていたようだ。やはりここでも、地形のくぼみがはっきり分かる。この辺りは上町台地に食い込んだ侵食谷の低地部にあたり、ここから西の空堀が台地部を突っ切る形で掘られていたのに対し、このあたりは南側の台地部の裾に沿った形で堀跡が続いているのが特徴だ。堀の南(城外)は高台となったこの周辺は地形的に惣構堀として唯一の弱点であり、大坂冬の陣の際、真田幸村が出丸を築いた理由が納得できる。
 地形的に低地部に当たるこのあたりは堀には水がたまって水堀となってもおかしくはないが、それは不明。玉造交差点を過ぎたあたりで、当時北へ流れ上がっていた猫間川を改修した東惣構堀と合流したらしいが、その後の整地作業の結果からか、この交差点付近で堀跡らしき地形の陥没は完全に途切れてしまう。

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空堀交差点から東を望む

空堀町交差点から長堀通り東側を眺める。この周辺は上町台地の侵食谷が入り込んだ地形であり、平坦な低地部となっている。惣構堀は長堀通りと一本南側の路地がはさみこむ地域を東に向けて走っていたようだ。

長堀通りに沿って残る堀跡を示す地形

 この陥没した地形がお分かりだろうか?長堀通りから南側を眺めると、こういったくぼみが西から東へと続いている。

堀の幅は40〜50m以上?

 上町筋周辺ほど明確ではないが、地形から察すると、やはりこのあたりも堀幅は40-50m程度はあったようだ。

三光神社

 三光神社境内内にある「真田の抜け穴」とライオンズクラブ寄贈の真田幸村像。冬の陣の時に真田丸と大坂城内を結ぶために作られた秘密の抜け穴との伝承があるが、籠城を決め込んだ大阪方に手が出せず業を煮やした徳川家康が大阪方へのデモンストレーションとして掘らせた、というのが正解らしい。

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玉造交差点近辺で堀跡を示す地形の陥没は消える

 玉造交差点の風景。この西側手前あたりで惣構跡と思われる地形の陥没はきれいさっぱり姿を消してしまう。



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