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三光神社
真田の抜け穴の伝説
(最終更新:02/01/16) |
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三光神社は創建が仁徳天皇の時代といわれる由緒ある神社。大阪七福神のひとつでもあるこの神社は寿老神を祀り、中風除けの信仰でも有名だ。毎年6月1日から7日まで中風除けの大祭として芽の輪くぐりの神事が執り行われる。
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位置的には南惣構堀のすぐ南側に面した場所にあたる |
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| ここの境内は真田幸村が大坂冬の陣の際に掘った抜け穴があることでも有名だ。いわゆる真田丸と呼ばれる出丸をこのあたりに築いた真田幸村が、南惣構堀を隔てた大坂城内へ通じる抜け穴を掘らせたとの伝説がそれだ。現在の抜け穴の入口は「真田の六文銭」文様入りの鉄の扉で閉ざされ、勿論、中に入ることは出来ない。そして、その横には信州上田の真田家菩提寺である長谷寺より取り寄せた石を台座としてライオンズクラブ寄贈の真田幸村像が建っている。 |
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| 抜け穴の入口。六文銭の模様のある頑丈な鉄扉で入口は閉ざされている |
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| ただし、「真田の抜け穴」と呼ばれるこの抜け穴、正確なところは良く分かっていない。ただ、この境内は真田丸の中心(現在の餌差町交差点、円珠庵あたり?)から数百m離れた地点にあたり、実際には真田丸の外側であったと思われる。実際のところ、冬の陣の折に籠城を決め込んだ大坂方に業を煮やした徳川家康が掘らせたものとする説が正しいようだ。 |
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| 入口から中をのぞくと数メートル先で南側(大阪城とは反対方向)に進路が曲がっている |
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豊臣秀吉が築いた天下の名城「大坂城」に対して正面きっては手も足も出せなかった徳川家康は籠城戦が長引くにしたがって、毛馬の川止め(淀川の水量を減らし、東横堀川を干上がらせるのが狙い)、備前島からの大砲攻撃等、様々なデモンストレーション的な戦略をとっている。空掘を隔てて、すぐの場所で大規模な抜け穴をこれ見よがしに掘り続け、本丸地下に爆薬を仕掛けて大坂城の中心をふっとばす、なんて流言飛語をばらまくくらいの戦略だったのではあるまいか?
実際、戦前の上町台地周辺を知る人の話によれば、戦後間もない頃まで、これと同じような抜け穴が上町台地の空堀通りの南側数箇所に存在していたという。ただ、他の抜け穴は子供の遊び場となり危険という理由で、全て住民によって埋め立てられてしまったとのこと。豊太閤びいきが多い大阪では、史実的にはほとんど資料の存在しない真田幸村という人への一種の敬慕のような気運が根強く、真田山に近いこの抜け穴にこのような伝承が生まれたのだと思われるし、手厚く保護された現在の姿を見るにつけ、事実を問い詰めることは意味が無いこととも思えてくる。 |
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| このあたりは昭和20年6月1日の大阪大空襲で大きな被害を受けた場所。三光神社も大きな被害を蒙ったが、拝殿正面の鳥居は爆弾の直撃を受け、その半分が吹っ飛んだ。戦後、鳥居の再建の折、戦災の教訓を後の世に伝える願いを込めて被災した鳥居を残すことになった。 |
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