惣構(そうがまえ)とは城全体を取り囲む防御施設のことである。秀吉時代の大坂城は西・南・東側をそれぞれ西惣構堀、南惣構堀、東惣構堀で囲まれていた。西惣構堀は現在の東横堀川で、古代難波京の運河を掘り返したものと思われる。南惣構堀は天王寺と城の中間である今の空堀通りに沿った形で作られた空堀だった。東惣構堀は戦前まで環状線の東側を流れ上がっていた猫間川を改修して堀としたものである。また北側は旧淀川が自然の堀を成していた。この四つの堀に囲まれた約2Km四方、約400万平方メートルにも達する広大な地域が秀吉時代の大坂城域だったわけだ。
しかし、秀吉は何も最初からこのような広大な範囲にわたる築城を考えていたわけではない。彼の死前後まで続いた大坂築城整備は大きく四つの段階に分けられるが、、第三の段階、文禄三(1594)年に命じたのが、この惣構堀の建造である。同じ時期、彼か築いた聚楽第を中心とした「城下町」京都を取り囲む形で作られた土塁である「御土居」の造成と、また伏見城の周辺にも土塁と堀からなる惣構の工事を行っている。この年は秀頼誕生の翌年にあたり、いずれは秀頼に譲ることになる三つの城の防御力強化を目指したものだろう。
特に住吉方面から平坦な台地が続き、地形上、唯一の大坂城の弱点とされた南方に築かれたこの南惣構堀は入念に作られた巨大な空堀であったという。構造的には上町台地を横切る形で深く掘り込まれた空堀に柵をめぐらせただけの簡素なものだったようだが、さすがは城攻めの天才だった秀吉の設計によるものであり、その防御力は絶大なものだった。大坂冬の陣で大坂城を取り囲んだ約20万の徳川方の大軍でさえ一兵たりともこの空堀を突破することは出来なかったのだから。
この惣構堀は大坂冬の陣時の和睦条件のメイン項目として真っ先に破却、埋め立てが行われ、徳川時代には掘り戻されることはなかった。しかし、このあたりを一度歩いてみれば、大体伝承の地域に沿って堀跡らしき地形が現在もしっかりと残っているのが分かる。秀吉時代の大坂城の広大さを思い起こす意味からも、一度このあたりを訪ねてみてはいかがだろう?
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