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豊臣秀吉の大坂城
想像こそ歴史の醍醐味?
最終更新:2002年3月13日

※このページはサイトを作成し始めた頃のものです。今後の更新はありません。
内容は「写真でみる大阪城」に引き継いでおります。

驚くほどに広大な豊臣時代の大坂城域。果たしてその実態は?
(大阪城天守閣2F展示パネルより)

はじめに

 何度か書いたが豊臣時代の大坂城は何一つとして残っていない。大坂冬の陣後の惣構(そうがまえ)の破却と二の丸、三の丸の堀の埋め立てに加えて夏の陣での焼失、そして徳川幕府による再建時に堀から石垣の根石に至るまで全て作り変えられてしまっているからだ。特に三段の複雑な曲輪によって構成されていた本丸に至っては膨大な盛り土が施され面影は全く無い。これは大阪城を語るときに是非とも知っておいて頂きたい事実である。

 とにかく豊臣秀吉の築いた大坂城は謎だらけで信憑性のある資料といえば中井家(徳川幕府の京都大工頭)より発見された本丸図があるばかりである。結局のところ大坂の陣布陣図や、その他文献から推察するしかないのが実情なのだが、豊臣秀吉によって完成された大坂城域は上記地図に赤く示した範囲だったことは確実である。大川(旧淀川)、東横堀川、空堀通り、JR環状線(旧・猫間川)の4つの惣構堀に囲まれたこの範囲は現在の大阪城域の約4倍に相当する。もちろん、これは幼い秀頼の行く末を案じた秀吉が彼の死前後まで続けた大坂城防御ライン拡充の結果広がったものであり、この区域内には大名屋敷や民家も存在したから、羅城としての大坂城域と呼ぶ方が正解なのかもしれない。

 今となっては想像力の助けを借りて想像するしかない秀吉の大坂城の実態だが、歩いてみれば地名や地形に痕跡を留めている場所は思いのほか数多い。ここではそうした史実の紹介とともに、この周辺地域の紹介も兼ねてみたいと思う。


contents
堀(惣構)跡を歩く 最終更新:2002/01/06
秀吉時代の石垣を訪ねる 最終更新:2001/11/21
私説 大坂冬の陣 備前島から見た大坂城 最終更新:2002/03/13
 

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