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石垣の話
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2001.5.6UP
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| 本丸東側面の石垣 |
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城内で一番の高さ(根石からの高さ約32m)を誇る本丸東側面の見事な石垣。幕末までは立派な白壁と三重の櫓がそびえていたのに幕末の戊辰戦争時の城中大火で全て焼けてしまった。
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*「大阪城・石垣のアルバム」(2006,07,19アップ)もご覧下さい
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安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては「城」が単なる武家の住居から行政の中心へと大きく役割を変えていった時代である。それに伴い城郭も山上の砦から平山城、平城と市街地の中心に場所を移していった(というより城を中心に街が形成されていったと言うほうが正解か?)。
織田信長が築いた安土城が近代城郭の第一号といわれるが、それに続く豊臣秀吉の大坂城、その後各地の大名の居城と一大築城ブームが大阪の陣前後まで続くのである。そういった流れの中でこの時期、建築、土木学的に見ても大きな技術的な進歩が起こった。
今の大阪城は全て徳川幕府によって作り変えられたもので、豊臣時代の遺構は何一つとして残っていない。だが、もし豊臣時代の石垣を用いて大阪城の再建がなされていたら今の大阪城の印象はずいぶん違っていたに違いない。豊臣秀吉が大坂城を築いたころの土木技術では現在のような高さの石垣を組み上げることすらできなかったのだ。
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岡山城
宇喜田秀家により創建。織田信長の安土城を模して作られたというが、黒漆喰の壁、多角形の天主台といい、秀吉の大坂城天守閣に雰囲気が似ている、と思う。
明治維新後も本丸内の古建築は残されたが、1945年6月29日の岡山空襲で被災。本丸内の月見櫓と内山下小学校内に残る西丸西手櫓以外は全て焼失した。現在の天守閣は1966年の再建で、鉄筋コンクリート造り。大阪城と同じく歴史博物館となっている。 |
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以前、岡山城を見物したときに気づいたが、同じ城内でも、一番古く建造された部分とそれ以外では石垣の組み方が明らかに違っている。
右の写真は宇喜田秀家によって築かれた(1561-1597頃)本丸である。殆どが野面積であるが、池田忠雄が築いた(1630前後)月見櫓周辺、および二の丸の石垣は打込萩となっている。建造の時期によって石垣の様式が異なるよい例だが、石垣の様式は古いものから以下の3ヶに大別される。 |
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1)野面積
丸い自然石をそのまま用いる。高く積み上げるのは困難で耐年性にも難あり。 |
2)打込萩
石の周辺を平らに加工した割石を用いた石積み。石の隙間に詰め石を施す。角石の部分から組上げてゆく。扇の勾配というように石垣のカーブの美しさがが特徴。 |
3)切込萩
石全体を組込む場所に合わせて加工。石と石の間に隙間の無い精巧な組み方。二条城、江戸城、大阪城の城門枡形で見られる。 |
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| これが「野面(のづら)積」、岡山城本丸内 |
「打込(うちこみ)萩」月見櫓下部分 |
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豊臣時代の石垣
現在確認されている豊臣時代の石垣は全て野面積。本丸、西の丸、二の丸の一部が発掘され確認されている。石は瀬戸内の花崗岩、生駒の青石等、様々な自然石から成り、中には石臼、墓石等も含まれていたことが確認されている。
現在の本丸広場は段差の無い平坦な一角となっているが豊臣時代は3段の曲輪から成るかなりの高低差をもつ入り組んだ造りだった。これは本丸が石山本願寺跡地の地形をそのまま流用したこと、あるいは防衛上の意味も持っていた為だろうが、当時の築城技術では現在の本丸を取り囲むような高い石垣を築くことは不可能だったということもあるだろう。石は全て赤く変色し夏の陣の際の火災にあった痕跡を残す。 |
| 2004年8月オーサカキングの際に公開された豊臣時代の石垣遺構(通常は非公開) |
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| 城門枡形の巨石 |
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大阪城の石垣でもう一つ忘れてはならないのは他では見られない巨石が数多く使われている事。城内での巨石の分布を見てみると大手口、京橋口、そして本丸桜門の3ヶ所に集中している事がわかる。これはなぜか肥後熊本の加藤忠弘、備前岡山の池田忠雄の二大名の担当区域に一致する。それにしても瀬戸内海の島で切り出されたこんな大きな石が、海上を輸送され石垣として組み込まれる様を想像するだけでもワクワクしてしまう。
ただ、この巨石、見た目は巨大だが、厚さは意外と薄い造りであることが知られている。左の写真は京橋口石垣改修工事の時のものだが(手前の薄い石の奥が肥後石)、巨石は全て板状であり、裏に支えの石垣があることがわかる。城内で最も大きな蛸石(本丸桜門枡形、上の写真)でもその厚さは70-90cmくらいであるらしい。ただ、それでも蛸石の重さは推定130t以上もあるのだが。
もっとも、巨石の石組みは特殊であり、他の石は全て石面の3倍程度の奥行きがあるという。
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| 勇壮な南外堀と石組 |
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| 見事なまでに均整のとれた現在の石垣。打込萩で築かれた石垣のカーブが美しい。約100万個の石が使用されていると言うが、全て花崗岩の立派な切り石で統一されているところがまた豪華なのである。上り坂にあった徳川幕府の勢力を背景として西国(外様)62大名に課された普請の結集であり、成熟しつつあった近代日本の築城技術として最高の結果が集約されている。南外堀の石垣は城中2番目の高さを誇る。根石から天端までの高さが30mあまりもある。このあたりの眺望はいくら眺めていても見飽きる事が無い(なんていうと暇人ぽく聞こえてしまうかしらん?) |
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| 番外編(?)東外堀の石組 |
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陸軍によって埋め立てられた東外堀は、大阪城一帯が公園として市民に開放された後はラグビー場、ピストル射撃場などのスポーツ施設となっていた。今のように掘り返されたのは1995年APEC大阪開催をきっかけとして本来の水堀の復活が決まった為。(当時の米元クリントン大統領にドタキャンくらったあのAPECを覚えてる?)ただ、玉造口横の射撃場後、青屋口周辺が掘り返されなかった事(本来北外堀とは一体だった)等、完全な復活とはなっていない。今となっては別に運動場のまんまでもよかったんじゃない?なんて勝手な事を考えてしまう。ただ、、この周辺の石組みは他と比べてちょっと荒っぽい造りになっているような気がする。城中で最も石垣の刻印が鮮明に残っている地域であり、担当大名が手を抜いたわけでもないんだろうが。それとも当時このあたりは湿地帯であり、難工事区域だったという事なのだろうか?
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