
(最終更新:2004,10,25)
|
|
|
大手門を入ればそこは大手口を内部から防御する大手枡形。40m x 54mの枡形空間を頑丈な石塁でもって取り囲み、東と北は多聞櫓、堀に面した西と南には塀を構える堅固な事この上ない空間である。もっとも、城の玄関口としてもっとも人目につく場所である事を考えると、この必要以上とも思える贅沢な頑丈さは防御面はもちろんの事ながら徳川幕府の権威を改めて天下に示威するための機能も果たしていたと思われる。
ちなみに、江戸時代、城詰めの武士達のために日常品を扱う市が城内に出入りを許された商人達によって毎月決まった日に開かれていたが、この櫓が会場となっていたため「市多聞」と呼ばれていた、そんなエピソードもここにはある(^^)
|
|

|
[ 大手口枡形 ]
この枡形は元和六年(1620)、徳川幕府による大坂城再建第一期工事の際、肥後熊本藩主・加藤忠広の分担で築かれ、のち寛永五年(1628)の再建第三期工事で久留米藩主・有馬豊氏によって築き直された物である。使用されている石材は全て小豆島、犬島といった瀬戸内の島々から切り出され、はるばる海上輸送されてきた上質の花崗岩である。
|
|
[ 大手口枡形の巨石 ]
 |
| ひときわ目を引く三つの巨石 |
|
大手門を入ると正面に見えるのが枡形に組み込まれた3つの巨石群。左より巨石は北から順に大手二番石(37.90平米、城内5位)、大手目付石(47.98平米、同四位)、大手三番石(35.82平米、同8位)。
その大きさには目を見張るばかりだが、ここの巨石群が桜門枡形あたりと違っているのはほぼ切り出されたままの形で使用されており、さほど表面処理がされていないこと。近くで見れば石の表面がかなり彎曲していることがわかる。
ちなみに巨石の隙間を埋めるように組まれた石組みのことを「笑い積み」と言う。これは定型に従わない高度な技術を要する石組み技法である。 |
 |
 |
 |
| これが「笑い積み」 |
櫓下のあまり目につかない部分は
通常の切り込み萩が用いられている |
内側から見てもこの石組はすごい |
|
|
[ 多 聞 櫓 ]
多聞櫓とは塁上に築く細長い長屋形式の櫓の事を言う。松永弾正久秀(15101577?)の居城であった大和・多聞城で初めてこの形式の櫓が造られた事にちなみ、この名称で呼ばれる事になったという。大手口の多聞櫓は寛永五年に建造された物が天明三年(1783)に落雷で焼失、長らく枡形の石組だけの姿をさらしていたが、嘉永三年(1848)幕末の大坂城大改修時に再建された。明治維新時の城中大火では類焼を免れ昭和20年の米軍による空襲でも難を逃れたが昭和25年のジェーン台風では多大な被害を受けた為、昭和44年に解体修理されている。
門の上(北側部分)を「続櫓」、そこから折れ曲がった石塁上の櫓(東側)の事を「続櫓」と呼ぶが、この多聞櫓の渡櫓は桁行:十九間(約39m)、梁行:五間(約9.9m)、続櫓は桁行:二八間(約55m)、梁行三間(約5.8m)の規模を誇り、現存する多聞櫓では日本一の規模となっている。ちなみに、ここの多聞櫓と隣接する千貫櫓は昭和五八年の大阪城博覧会以後、毎年内部が公開されるようになり、昭和六三年以後は原則として春・秋の二度実施されている。
|
 |
 |
かってこの櫓の鉄門は
「大手の大門」と呼ばれていた |
門の真下から上をのぞば
そこにあるのは「槍落とし」 |
|
 |
 |
礎石の残る南側雁木上
江戸時代にはここにも多聞櫓があった
|
毎年秋には菊花で飾られる |
|
|
[ 雁木造り ]
大阪城の内側塁壁は全て2〜3m程度の石階段による雁木造りとなっている。また、塀を内側から支える支柱の構造は独特の物である。また、堀側の塁壁、枡形の石塁ともに石組の一番上の笠石には一定間隔で鉄砲狭間が穿たれている。 |
|
 |
| 平成16年4月から夜間ライトアップが始まった |
|
|