巨石について
桜門枡形「蛸石」 他ではまず見ることの出来ない巨石が数多く見られるのも大阪城の石垣の特徴の一つである。城内で巨石が特に集中しているのは大手門枡形、京橋口枡形、そして本丸桜門枡形の三箇所であるが、他にも地面が全て花崗岩の切石で敷かれた極楽橋枡形、枡形は大正期以降、軍部によって撤去されてしまったがやはり巨大な鏡石が残る玉造口なども必見のポイントである。
これら巨石群も建造時期によって微妙な違いが見られる。再建工事第一期に組まれた大手口枡形や京橋口枡形の巨石には切りだされたままの形で使用されたためか表面が大きく彎曲している箇所があるが、再建工事の第二期に建造された桜門枡形では巨石にもかなりの表面加工が施されている。
また、これら巨石は内部に組まれた石垣(それだけでも通常の石垣として通用するクオリティがあるという)を覆う化粧板的な使い方をされていることが解体修理の際に解明されており、表面積の割りには意外と奥行きが短いことが知られている。
ミニアルバム
クリックで拡大します
城内巨石ランキング
順位 |
石 名 |
場 所 |
高さ(最高部) (m) |
横(最長部) (m) |
表面露出実面積 (平方m) |
16産地(推定) |
担当 大名 |
1位 | 蛸石 | 桜門枡形 | 5.5 | 11.7 | 59.43 | 備前 犬島 | 岡山 池田忠雄 |
2位 | 肥後石 | 京橋口枡形 | 5.5 | 14.0 | 54.17 | 讃岐 小豆島 | 岡山 池田忠雄 |
3位 | 袖振石 | 桜門枡形 |
4.2 | 13.5 | 53.85 | 備前 犬島 | 岡山 池田忠雄 |
4位 | 大手目付石 | 大手門枡形 | 5.1 | 11.0 | 47.98 | 讃岐 小豆島(千家) | 熊本 加藤忠広 |
5位 | 大手二番石 | 大手門枡形 | 5.3 | 8.0 | 37.9 | 讃岐 小豆島(千家) | 熊本 加藤忠広 |
6位 | 碁盤石 | 桜門枡形 | 5.7 | 6.5 | 36.50 | 備前沖ノ島(北木島)? | 岡山 池田忠雄 |
7位 | 京橋口二番石 | 京橋口枡形 | 3.8 | 11.5 | 36.00 | 讃岐 小豆島 | 岡山 池田忠雄 |
8位 | 大手三番石 | 大手門枡形 | 4.9 | 7.9 | 35.82 | 讃岐 小豆島? | 熊本 加藤忠広 |
9位 | 桜門四番石 | 桜門枡形 | 6.0 | 5.0 | 26.90 | ? | 岡山 池田忠雄 |
10位 | 竜石 | 桜門枡形 | 3.4 | 6.9 | 約23.0 | 備前 沖ノ島 | 岡山 池田忠雄 |
※クリックで拡大します
大手門枡形 このランキングは大阪城天守閣館長だった渡辺武さんが昭和49年(1974)に実測値をもとに作成されたものである。第一位の蛸石は表面実面積が59.43平方m(三六畳敷)、第十位の竜石でも表面積が約23平方m(約十四畳敷)もあり、これは名古屋城随一の清正石が約十畳敷であることとくらべてみても大阪城の巨石群がいかに驚異的なものであるかがわかる。ちなみにこのランキングは表面実面積に基づいたものであるが重量を基準にすると入れ替わる可能性があるという。中でも大手門枡形の大手目付石は飛び抜けて奥行きがあるらしく重量では蛸石を上回る可能性があるらしい。
京橋口枡形内・肥後石 また、戦前から昭和40年代まで城内第一の巨石は蛸石ではなく肥後石であるとされていた。昭和9年11月に刊行され昭和40年代まで広く普及していた大阪城解説書「大阪城物語」(恒次寿 著)において肥後石は加藤清正が豊臣秀吉のために小豆島から運んできた物とされ、その大きさは高さ5.8m、横14.8m、約50畳敷(84.82平方m)、推定重量約214tと城内第一位の巨石として紹介され、それが一般的な通説となっていたためである。(ちなみに蛸石は第二位とされていた)。もっとも当時の表面積は石の形状を無視して縦・横の最長部分の長さを掛け合わせただけに近い実にアバウトなもので、推定重量に至っては厚さを一律150cmと仮定した上での数字となっていた(実際は約90cm)。昭和初期には大阪城の石垣は秀吉建造によるものと考えられていた事は考慮するとしても、昭和40年代に行われた緻密な実測に基づいた数字(表面露出実面積:54.17平方m、推定重量:約127t)が公表されるまでの30年以上の間、通説とされていたのはある意味驚いていい事かもしれない。