大阪城天守閣について

大阪城天守閣について

tenshu1005.jpg 現在の大阪城天守閣が完成したのは昭和6年のことであった。豊臣時代、そして寛文五年(1665)落雷により焼失した徳川時代に続く三代目の天守閣である。再建の提案をしたのは当時の大阪市長・関一(せきはじめ)。大阪のシンボルでありながら明治以降、全域が軍施設となっていた大阪城の中心に豊臣時代の天守閣を再建し一部を公園として広く一般市民に開放する事は、ゆとりある近代都市としての大阪の将来構想に欠かせないと考えた結果である。昭和3(1931)年7月、大阪市は昭和天皇即位の御大礼を記念する事業として天守閣の復興を含む大阪城の公園化事業を発表。市民よりの寄付金を得て開始された建設工事は昭和6(1931)年11月7日に竣工した。

 設計は大阪市建築局で責任者は当時、大阪市土木部建築課長だった建築家の波江悌夫氏で彼は昭和4年2月に天守閣の新築工事が正式に決まると建築課嘱託で古典建築に造詣の深い古川重春氏を設計係に加えて復元研究と設計書作成にあたらせた。神社仏閣研究に押されて城郭研究はないがしろにされていた当時、具体的な資料は「大阪夏の陣図屏風」のみであり、基本構造から細部に至るまで設計は全国の桃山時代天守閣の調査によって集めた資料に基づいて行われたという。更には秀吉時代と同じく、その時代に於ける最先端技術を用いて最高のものを後世に残すという意味あいから鉄骨鉄筋コンクリート製の手法が取られることになったのだが全く前例のない巨大和式建造物であったこと、当時全域が軍用地であった大阪城内では物資の運搬すらスムーズに行うことができず実際に施工には大変な苦労があったという。

 徳川時代の石垣に豊臣時代風の天守を築いた事、そして何より鉄筋コンクリート製の再建であったことに対する批判はいまだ多いが、やはり今では昭和初期、『大(だい)大坂』と呼ばれていた当時の大阪が呈していた活況を象徴するモニュメント、それも第一級の近代建築の傑作と見なすべきだろう(ちなみに再建当時、天守台は豊臣時代のものと考えられていた)。また、ここであみ出された建物の重量を直接石垣にかけない工法と内部を歴史博物館として活用する手法は戦後の復興天守閣ブームの際、全ての城で見本とされている。

 再建から60有余年を経た平成7年12月から16ヶ月をかけて行われた「平成の大改修」で外観のみならず、最新の耐震性、耐久性を備えた建造物に生まれ変わった大阪城天守閣であるが、平成9年9月には文化財保護法に基づく国の「登録有形文化財」に指定されている。

復興天守閣の「なぜ?」

tenshu1006.jpg 徳川時代の天守台の上に豊臣時代をモデルとする天守閣を建てたのかと批判されることが多いが、再建計画が決まった昭和初期、「大阪城といえば豊臣秀吉」であり、また天守台の石垣も豊臣時代のものと考えられていたのがその理由である。ちなみに現在の天守台を含めた石垣の全てが徳川幕府による大坂城再建工事で築かれたことが証明されたのは昭和34年の大阪城学術調査の結果である。いずれにせよ文化財保護法によって文化財建造物の再建が厳しく規定されている現在では今の天守台には徳川時代の天守閣しか建てることはできない訳だが、そうなると大阪城=豊臣秀吉の一般的なイメージは大きく変わってしまうだろう。

 またモデルとされた大坂夏の陣屏風(黒田屏風)では黒壁である天守の壁が何故白いのかとの疑問の声も多いが、当初からそういった批判の声があったようで復興設計を担当した古川重春氏は文献資料(秀吉実記)の中に秀吉時代の天守閣が「四方八面白壁翠屏の如し」と出てくることを白壁と考えた根拠として挙げている。また宮本裕次氏(大阪城天守閣主任学芸員)は「設計責任者だった波江氏は黒田屏風を実際見ていただろうが他の設計者は主に写真に撮られたものを見て設計していたのではないか」と指摘されている。実物の黒田屏風に描かれた天守閣をよく見ると確かに壁に濃淡の差がはっきりとあり、当時のモノクロ写真では外壁の広い面積を占める薄い方の壁が白っぽく見えたのではないかと言うわけである。実際の設計現場の様子を考えるとあり得ることかもしれない。

ミニアルバム

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