豊国神社

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【 豊国神社 】

ninomaru003.jpg 豊臣秀吉、秀頼、秀長を祭神とする神社である。豊臣秀頼の時代には山里丸に豊国社があったが徳川時代にはもちろん再建されることはなかった。

 明治12年(1879)に京都の豊国神社より分祀されて当初は中之島に豊国神社が建てられていたが昭和36年(1961)、中之島の大阪市役所庁舎の増築を機会に大阪城内に遷座されている。

 ちなみに京都の豊国神社からは大正10年に独立しており、京都の豊国神社は「とよくにじんじゃ」と呼ばれるのに対し大阪の豊国神社は「ほうこくじんじゃ」と一般的には呼び分けられている。

豊国社について

20041028_01.jpg京都・豊国神社の唐門(国宝) 豊国社は豊臣秀吉死去の翌年の慶長四年(1599)、遺体が遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され(遺体埋葬は死の直後という説もある)、その麓に廟所が建立されたことに始まる。豊臣家滅亡までは方広寺大仏殿と合わせて壮麗な廟所が立ち並び、また秀吉時代を懐かしむ多くの一般市民が参拝し一時は京都市域でもっとも繁華な一角になっていたという。しかし、元和元年(1615)豊臣家が滅亡すると、徳川幕府により豊国大明神の神号も剥奪され秀吉の墓塔も大仏殿裏手南東に建てられた石塔(現豊国神社内、馬塚)に遷され、江戸期を通じて神宮寺や本殿は朽ち果てるまま放置されることになってしまった。

20050927_02.jpg方広寺大仏殿名残の巨石群 時代は下って明治元年(1868)、大阪に行幸された明治天皇は豊臣秀吉を天下を統一しながらも幕府を作らなかった尊皇の功臣であるとして豊国大明神の神号復活と豊国神社の再興を布告されたことから明治6年(1873)別格官幣社に列格、明治13年(1880)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し遷座が行われた。この時、阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太の設計によって秀吉の廟所である巨大な石造五輪塔が再建され、その麓の、かつての社殿があった太閤垣には秀吉の孫である国松と愛妾松の丸殿の供養塔(五輪塔)が誓願寺から移されている。

大阪の豊国神社

houkoku_04.jpg 大阪の豊国神社は明治12年(1879)、京都の別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の場所)に鎮座された事に始まる。大正元年(1912)、中央公会堂建設の為に府立図書館の西隣の公園内に遷座の後(現大阪市役所庁舎の東半分)、大正10年(1921)には京都の豊国神社から独立して府社に列せられていた。昭和20年(1945)の終戦によって社格が廃止された後は宗教法人となり、神社本庁所属の神社となっている。

 その後、大阪市役所庁舎の増築が決まった昭和31年(1956)、大阪市より神社移転の要望が出され祭神に縁の深い大阪城内の現在地に遷座することが決定されている。ちなみに遷座前の社殿は豊中市の服部住吉神社に移築されているが、境内の鳥居や多くの歌碑は全て中之島から移設されたものである。

豊臣秀吉公銅像

houkoku_05.jpg 明治36年(1903)、大阪城内に建立された豊臣秀吉公の銅像がその後中之島の神社境内に移設され、戦前は多くの大阪市民に親しまれていたが、その銅像は太平洋戦争中の昭和18年(1943)、金属供出され姿を消していた。

 現在、境内にそびえる銅像は平成19年(2007)に再建されたものである。総高は5.2m。平成19年に文化勲章を受賞された彫刻家の中村晋也氏の手によるもので明治期の銅像の復元ではない。

ミニアルバム

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houkoku_02.jpgやはり初詣は混雑します
ninomaru022.jpg結婚式も数多い
ninomaru014.jpg雨の日は屋根の緑青がしっとりと
ninomaru023.jpg本殿の大絵馬。毎年12月中旬、翌年の干支にちなんだものに掛け替えられる
houkoku_03.jpg夜間はライトアップされる(防犯のためかも)
ninomaru004.jpg平成19年再建の豊臣秀吉公銅像
houkoku_07.jpg見据えているのは本丸方向
houkoku_01.jpg春の風景
houkoku_09.jpg観光ボランティア協会の事務所も境内にある。