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岸和田城の基礎知識
(最終更新:2001年11月18日)
現在は夜間ライトアップされている天守閣
江戸時代の岸和田城は旧市街地を含む広大な城域だった

 岸和田城といえば岡部藩、と地元の大半の方が答える。事実、徳川家光の時代に岡部宣勝が城主になって以来、明治維新迄13代に渡る岡部公の治世の元に現在の岸和田の街の基礎が固められたと言ってよい。また、昭和5年、岡部氏が城地を岸和田市に寄贈した事で今日の城址公園がある。
  ただ、現在の城郭を整備したのは豊臣秀吉の叔父に当たる小出秀政である。反秀吉の一大勢力として紀州周辺で大きな勢力を誇った根来衆・雑賀衆への押さえの前線基地として秀吉が多重の堀に囲まれた広大な城を作らせたのだ。大坂の陣により豊臣家滅亡後に、豊臣氏ゆかりの小出氏は但馬へ左遷され、その後松平氏を経て岡部氏が入城、以後、明治維新まで13代に渡る治世が続くこととなる。

岸和田城の歴史
1334(建部元)年 楠木正成の一族、和田高家が、照日山(野田町)に城を築く
1408(応永15)年 細川頼長、和泉半国守護に任ぜられ、岸和田城を居城とする
1583(天正11)年 羽柴秀吉、根来・雑賀衆への押さえとして、家臣中村一臣を岸和田城主とする
1584(天正12)年 根来・雑賀衆、岸和田城を攻撃する。
1585(天正13)年 秀吉、根来・雑賀衆攻めのため、岸和田城に入る。泉南の根来寺出城を落とし、根来寺を焼く。戦後、中村一臣を近江水口へ移し、小出秀正を城主とする(4千石)
1587(天正15)年 秀正、6000石加増(1万石)。城郭整備にかかる。竣工は1598年か。
1595(文禄4)年 秀正、2万石加増(3万石)。天守閣造営着工。竣工は1597年。
1619(元和5)年 小出吉英、但馬出石に転封。丹波篠山より松平(松井)康重入封(5万石)。幕府より石垣泰行、三好長直派遣され、城下の海岸部に防潮石垣を築く。
1623(元和9)年 伏見城より移築された伏見櫓が二の丸に築かれる。
1631(寛永8)年 松平康重、領地はそのままで1万石の増高を願い出て許される(6万石)。
1640(寛永元)年 松平康映、播磨山崎に転封。摂津高槻より岡部宣勝入封(6万石)。
1661(寛文元)年 岡部行隆、襲封にあたり弟2人に7千石を分知。以後、岸和田藩は5万3千石で明治にいたる。
1827(文政10)年 天守閣、落雷により焼失。
1869(明治2)年 版籍奉還。岡部長職、岸和田藩知事となる。
1871(明治4)年 廃藩置県。岡部長職、東京へ移住し、岡部氏13代にわたる治世終わる。
1943(昭和18)年 岸和田城跡、大阪府史跡に指定。
1954(昭和29)年 天守閣復興。
1969(昭和44)年 城門、櫓復興。
1970(昭和45)年 櫓を岸和田市立郷土資料館として開館。
岸和田郷土資料館パンフレットより転載)

岸和田城のルーツはここ!
入っていいの?と思わせるような場所だった
照日山石碑 照日山
 和田高家が、最初に城を築いたのは照日山(野田町)。南海岸和田駅の南東部数百メートルのこのあたり。もっとも、城と言っても砦に毛の生えたようなものだったに違いない。
 現在は住宅地の中にひっそりと残る小高い丘の上に記念の石碑がポツリと建てられているだけ。案内も何もなく、探すのに苦労した。

ちぎり城の名前の由来
そんな名前もあったのね
本丸写真01 本丸写真02
 岸和田城の別称は「猪伏山滕(ちきり)城」と呼ばれる。「滕」とは機(はた)の縦糸を巻く機具のことで、本丸と二の丸を連ねた形が「滕」に似ていることから由来すると言われる。また、「猪伏山」とは城全体の高台が猪が伏せた形に似ていることから付けられた呼び名らしい。

犬走り石垣
船着場ではない!
犬走り石垣 犬走り石垣02
 本丸を取り囲む石垣の南面から東面にかけて、「犬走り石垣」と呼ばれる周堤帯がある。軍事的には本丸へ攻め寄せる敵に拠点を与えるということから矛盾した造りになっている為、他の城では見られないものだ。これは岸和田城の石垣が「和泉砂岩」と呼ばれるもろい石を多く用いているため壊れやすく、強度を補強する為に作られたものであるという。
 言われてみると本丸を取り囲む石垣には近代になっての補修した痕跡が数多く見られる。





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