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| 近代日本重化学工業発祥の地 |
| 最終更新:2002/04/24 |
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明治6年(1873)マンチニによって描かれた造幣寮全図(大川対岸より)
(造幣博物館展示品) |
「あちら(東京/大蔵省印刷局のこと)は一万円だけど、こちら(大阪)はどう頑張ってみても500円止まりだし・・・」。これは東京との比較において大阪人が自虐的に良く言う台詞の一つ。今となってはそれ以上の開きがあることは明白だけど、明治初期の頃の大阪には近代国家建設への高い志と熱き思いがあったのだ。特に造幣局は近代国家の礎ともいえる安定した貨幣の供給という使命をもって創られた西洋式近代工場の第一号。その歴史をひも解けば、貨幣の製造に留まらずその後の日本全体の産業の近代化、文化の興隆に果たした役割は計り知れないことが良くわかる。
現在では東京と広島に支局を持つが、流通する貨幣の大半はここで作られていることに変わりはない。また貨幣の製造以外にも勲章・褒章類や国内オリンピック大会で使用されるメダルなどの金属工芸品の製造、地金・貴金属の分析、品位証明、精製といった業務もとり行っているが、ここで製造された新500円硬貨や40年を経ても未だ色あせしない東京オリンピックの金メダルは世界に冠たる日本の冶金及び金属工芸技術の高さを照明するものとしても有名である。 |
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| 造幣博物館 |
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大川側より見た現在の「造幣博物館」
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通り抜け期間中は休館 |
大川沿いの通り抜けの並木に面して立つ赤レンガが印象的な建物が「造幣博物館」である。ここは元々、明治24年に竣工した造幣局構内用の火力発電所の建物。昭和44年に貨幣事業100周年を記念して内部を改装した上で博物館として開設されたものだ。古代に作られた和同開珎や皇朝十二銭をはじめ、豊臣・徳川時代の大判・小判などから現在流通している貨幣・記念貨幣までを展示しており、貨幣の歴史、社会との関わりを学ぶことが出来る。現存数が極めて少ない大判や、ここにしか現存しない貴重な資料も数種展示されている。
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見学について |
| 住所 |
〒530−0043 大阪市北区天満1−1−79
TEL.06-6351-8509 |
| 見学時間 |
9:30〜16:30(入館は16:00まで) |
| 見学日 |
月〜金曜日(祝祭日及び年末年始は除く)
また、「桜の通り抜け」期間中は臨時休館 |
| 見学手続 |
予約の必要は不要だが、
正門詰所で観覧手続きが必要 |
| 入館料 |
無料 |
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造幣博物館・写真アルバムはこちらから
↓
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| 造幣局/その沿革 |
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| 現在の正門。 国道一号線に面した場所に移転している |
造幣局の創業は明治4年4月4日。その当時は「造幣寮」と呼ばれていた。明治の新政府はほとんどゼロからの近代国家建設をしなくてはならなかったが、中でも貨幣制度の確立は急務だった。
当時の日本の貨幣は大判や小判、天保通宝といった品位や量目が乱雑、不統一で、規格の統制が取れた欧米の貨幣とは比べ物にならず、世界各国に通用する貨幣と呼べるシロモノではなかった。
そこで新政府は明治元年11月、淀川沿いの大阪府西成郡川崎村の5万6千坪の地に近代的な造幣工場の建設を始めた。
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大川対岸より
今も変らぬ桜の名所 |
設計・監督を一任されたのは英国人技師のトーマス・J・ウォートルス。彼は長崎の商人グラバーの紹介で新政府に雇われたと言われるが、後に東京銀座の赤レンガ街計画を推し進めたことでも有名である。
近代日本初の大工場建設である造幣局の建設は、工程の半分の時点で火災が発生したり、英国から鉄柱を運搬する船が香港沖で沈没するなど災難続きだったというが、2年の歳月と98万5200両の工費をかけて無事竣工する。
赤い煉瓦づくりの建物と巨大な煙突が並ぶ景観は、一躍関西の名物となるが、明治初年の大阪地誌には「築造極めて宏壮華麗をつくし数個の大煙突は高く空中に突出し黒煙一日として絶ゆることなし」と記されている。
最新式工場の造幣局は創業時に1日7時間制、日曜休日の服務規則を制定し、時代の先端を行くことになる。明治4年8月にはガス灯もともり、行灯やロウソクしか知らなかった一般庶民は見物に詰め掛けたという。
しかし、造幣頭(ぞうへいのかみ)の馬渡俊遇はじめ職員の大半は創業式典の前日にやっとチョンマゲを切り落としたほどで、なかなか頭の切り替えはスムーズにはいかなかったらしい。
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| 造幣局北門 「通り抜け」の時、ここが出口となる |
親しまれて早や百数十年 |
明治初年に忽然と現れた大工場。しかし、英国より輸入した最先端の機械設備を誇ってはいたが、他の国内産業が皆無の状況では造幣に関わる全てのものをこの地で自給自足で賄う必要があった。よって、創業時にはソーダ、硫酸、石炭ガス、コークスなどの製造はもとより、電信電話などの設備や天秤、時計など諸機械の製作までを局内で行っていたと言う。
また、事務面でも自製インクを使い、日本初の複式簿記を採用し、風俗面でも断髪、廃刀、洋服の着用などを率先して行ってもいる。このように造幣局は明治初年での欧米文化移植の先駆者として、また、その後の日本の近代工業及び文化の興隆に果たした役割は大きいと言える。
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これが創業当時の正門
通り抜けの並木に面したところにある |
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